母がいない

病名が分かったのが2月。

手術できず、化学療法もできず、緩和ケアを選択したときにはセカンドオピニオンを受けた病院で言われた「2,3ヶ月」の言葉がグルグルと回っていた。

 

通い始めてからの状態は悪くなかった。

明確な痛みというものはなかったようで、痛くないのになぁと喋っている姿を見れば安心した。

解熱鎮痛剤のような薬から始まって医療用麻薬のような薬になったときはドキリとしたけれど、ダルさや違和感が和らいでいるような様子を見ていたから問題はないのだと理解していた。

 

8月のはじめには家族で旅行に出かけた。

運転もしていたし、普段は離れて暮らしている姉のこどもたちと楽しそうに、よく歩いてよく笑っていた。

 

7月と8月に1回ずつ、水も飲めない状態になって病院で点滴を受けた。

「何が起きるか分からない」

分かっていたはずなのに分かってなかった。

 

ステロイドの入った薬を飲むようになったとき、一時的に眠れなくなる、元気になると説明を受けた。

実際にそのような状態だったと思う。

昼寝の時間が減って、少し食べられるようになった。

1週間も続いたか、覚えていないけど、急に寝込む時間が増えた。

食べられなくなった。

飲めなくなった。

立ち上がることも難しくなった。

 

その次の日、母は自分の意思で病院に行くと言い、救急車を呼んでくれと言った。

金曜日、夕方まで痛がっているようだった。

 

土曜日、意識はあった。会話できた。ありがとう、と繰り返していた。食べる気持ちはあるようだった。姉のこどもと一緒にアイスを一粒食べた。立てるようになったら退院できるでしょ?と話していた。

 

日曜日、少し意識が遠い。午前中、親戚が見舞いに来たと言い、面会を断っているのに?と姉が少し怒り、頼んでいたつもりの個室を再度頼みに行った。夜には個室に入れるって、と母に伝えると、寂しいなぁ、嫌だなぁと言った。トイレもポータブルを使っているようだったし、個室の方が良くない?と聞くと、頷いた。寂しいよね、個室になったら泊まりに来るからねと言ったら笑っていた。

 

月曜日、朝行くと個室に入っていた。先生に呼ばれ、説明を受け、もう体内の機能が低下していることを知って、いろんなことに納得した。午後には姉と父も来て、ぼんやりと過ごした。家のこともやらなくてはいけないし、今日は帰るねと言った。なんで帰ってしまったのだろう。家のことなんてどうでもよかった。泊まればよかったのに。母はどんなに寂しかっただろう。

 

火曜日、朝早くは少し喋ることができると聞いて7時ころ病室に着いたけれど、ほとんど喋れなかった。たまに私を見つけると水、といいたくさん飲んでいた。ゼリーも少し。ヨーグルトが食べたいと言ったから買ってきたけど食べられなかった。父が泊まり。

 

水曜日、父が朝帰ってきて、それから病院へ。昨日とは一転、水飲む?と聞いても返答なし。少し口に含ませてはみたけれど飲み込むことはできないようでそのまま流れて出てきた。病院は完全介護だと思っていたけれど、痛みや何かが起きてもナースコールすら押せない母の元には誰も来ない。今呼吸が止まったとして、誰が気付くのだろう。悲しくなって帰りたくなかったけど、この日も父泊まり。祖母には病名以外のことを話し、初めて見舞いへ。家族が揃った病室に泣き声が響いていた。かわいそうだ。わたしたちが半年かけても飲み込めない状況を、理解できるわけがない。

 

木曜日、父が昼過ぎまでいると言うので、それに合わせて向かうことに。と思ったら9時半ころに連絡、危ないと。病院まで40分。間に合わなかった。今日も朝一で来れば良かった。ひとりじゃなかっただろうか。父は近くにいたのだろうか。きっと父がいちばん辛いだろうと思えば聞くこともできない。

 

病名が分かってからたくさん後悔したし、いつまでも後悔するだろうと思ってたけど、入院してからの1週間は後悔することがたくさんありすぎて、なんて自分は愚かだったんだろうか、母からもらった30年間のお礼はできたのだろうか、情けなさだけが膨らんで、毎日泣いている。

どうやって生きていけばいいのか、わからない。